チェンジングマン
さて、いよいよ社会人になってからの話。
これで私も立派な社会人…⁉️
*天気と気分がいい時は六甲道〜元町まで
チャリで通いました
【切ないメン接】
初めての職場は、新設特別養護老人ホーム
(今は介護老人福祉施設と言う)です。
志望動機は…
①ハード面もソフト面も古いのはイヤ
②一から作る職場で可能性を感じたい
③神戸市中央区だったので帰りに遊んで帰れる
④募集枠が多かったから受かりやすいはず
⑤家賃補助(50%)はありがたい
⑥一人暮らしの場所(六甲道)から通うのにも程
よい距離じゃないか
⑦落ちてもいいから面接の練習やと思って
受けてみよかな
…面接では、さすがに全部は言ってませんが。
実は、この、社会人最初となる面接で、まさかの大遅刻をしたのです。
というのも、その時はまだ施設は出来上がってなかったんで、「開設準備室」が面接会場だったんですが、面接当日、まだできてない施設の場所に行っていたのです。
そして工事中の『立入禁止』の看板を見て初めて、「あれ?まさか…⁉️」と。
同じ職場を受けたクラスメイトに電話し面接会場を教えてもらいました。
なんと、二駅ほど東だったのです。走って電車に乗り、さらに走って…汗だくという、ね。
まぁ、面接官も苦笑いでした。
まさかの合格やったんですが、素直には喜べないことが…。
実はこの就職試験、最初は受ける気はなかったのです。まさに、上記の⑦なんです。
同じ学校から数人が受けてて、その中に仲がいい人がいたんですよね。その友達だけが採用されなかったという…。
しかも、かなり前から真剣に狙ってて。そこへ来て、「練習がてら行ってみよかな〜」みたいな私が受かってしまったわけです。
めちゃくちゃ複雑でした💦
言い出しにくかったですね、かなり‼️
周りから「おめでとう」と言ってもらっても
「うん?う〜ん…」みたいな、めちゃくちゃ複雑な時期を過ごしたという。
とまぁ、スタートからこんな感じでしたが、なんとかオープニングスタッフとして入職することに。
ちょうど桜がきれいな今頃でした。
周りは、少し歳上っぽい人たちもいましたが、ほぼほぼ同年代くらいでしたので、ワクワクしてましたね‼️開設前からマナー研修や、介護スタッフの仕事や、法律など…。
覚えているのは、事務員の女性から教わった挨拶の時のお辞儀の角度と、まるでクマのプーさんのような施設長さんの、「ディズニーランドのように来た人を幸せにする場所、また来てみたいと思わせる場所を作りたい」みたいな話。
後に「ディズニーの最強マニュアル」という本を読んでディズニーランドの仕掛けというか、スタッフのプロとしての行動や意識、演出を知ることになり、「あぁ、たぶんあの時言ってたのはこういうことやったんかな?」と分かりましたが、当時は「ディズニーランドか、じゃあ、自分達はキャラクターか。つまりエンターテイナーってことかな?」くらいに思ってました。
それでも、イチから自分達で作っていくということへのワクワクが勝っており、働くのが楽しみでしたね。
【とりあえずの1年目!!】
私がいた施設は1Fがデイサービスと厨房、事務所、在宅支援センター(今でいう地域包括支援センターの前身です)があり、2F、3Fが入居施設で、計100床?くらい。
施設長→介護長→看護主任・介護主任(当時は寮母主任)→フロアリーダー
そして現場の我々みたいな構成でした。
なんせオープニングでしたので、まずは職員同士のコミュニケーションが大切。
「これからチームとして現場を作っていくのだ!!」
…なんてことを深く考えていたわけもなく、少なくともこの時の私はまだまだ学生気分が抜けておらず、チームメイトというよりは、みんなクラスメイトに近い感じ?だったかも。
理想もクソもない、ふわついた毎日だったように思います。
実際、同年代の職員間はほぼ毎日仕事帰りに元町〜三宮をブラブラしたり、ご飯行ったりって感じでした。
そして、5月に入り少しずつ入居者さんが入ってきます。それぞれ居室担当が割り当てられてたので、本人、ご家族にあいさつしていくんですが、ドキドキ感はやはり実習とは違います。
家族さんは、どう感じてるんやろう?
「こんな素人に任せて大丈夫か⁉️」と思う方もいたことでしょう。
今思うと恥ずかしいだらけの働きっぷりだったと思います。言葉遣いとか、礼儀とか、なってなかったやろなぁ〜。
しかし徐々に職員にも変化が見え始めました。
リーダーシップを発揮する人、自主的にテキパキ業務をこなす人、言われたことをやる人…。
それぞれのポジションが確立される中、私はまだまだ自分の立ち位置が分からないでいました。「まぁ、ええか。なんとかなるやろ。」という甘いヤツでしたね。
それに加えて、自分で言うのも変ですが、それなりに可愛がってもらってたというか、なんだろう?「こいつはふわふわした軽いやつ」みたいに、ガキに思われていたのか(まぁ、言うことも中身のない軽い感じでしたし…)、そのせいか、甘えがあったというか、完全に仕事というものをナメてかかってました。
そうこうして半年を過ぎる頃から一人、また一人と辞めていく人が出てきました。
どちらかというと理想に燃えていた人とか、それなりのポジションにいた人達だったような…。
「ここはおかしい」とか、「ついていけない」とかの理由で辞めていくのだと、耳に入ってきてはいましたが、その頃の私は「ふーん、そっかぁ」くらいでした。まだ何がおかしいとか考えるまでもいってませんでした。
それよりも楽しいが勝ってたとゆーか。
特別養護老人ホームとは、よっぽどのことがない限りその人の終の棲家になるわけです。
前項で書いたディズニーランドの話の流れではないんですが、どこかで
”いかにこの人たちと楽しい時間を過ごすか”
”いかに「ここに来てよかった」と思ってもらうか”
”いかにこの人たちの思い出に自分が入り込むか”
を考えていたと思います。
まぁ、自己満足を求める程度のレベルでしたので、歳上の皆さんみたいに、考え方や方向性が違うからその場を去るというのはイマイチ理解できてなかった。
むしろ
「みんな、それを作っていくために新しい施設選んだんちゃうの??」と思ってました。
そんな時、ふと頭をよぎるのは、実習の時の「理想と現実のギャップを埋めるのが自分達の仕事」という言葉でした。
でも、まだその頃はしっかりと考えはしませんでした。交代勤務のリズムに慣れるのに精一杯だったのかもしれませんね。
夜勤明けに、一緒に夜勤した人とご飯食べに行って元町〜三宮をブラブラして帰ることが多かったんですが、人が言うには、神戸の街中でよく看板にぶつかってたようです。
あるとき、ボーっと歩いてて、ハッと気付いたら元町の南京町にいて、驚いて「なんで⁉️」と大きな声が出てしまったことがありました。
私が行きたいと言ったらしいですが全く記憶にございません。
とにかく、仕事以上に同期との遊びと(笑)で1年目は過ぎていきました。どちらかというとその頃の私はきっとかなりアカン職員やったでしょう(笑)
【モヤモヤしだした2年目】
で、そんな私が少しずつ変わり出したのは、2年目の後半くらいかな?
中間管理職がコロコロ変わる時期に突入し、素人同然の自分らは、教えてもらう人もなく、でも日常は回り続けるから止まることはできず。
みんな走り続けてたと思う。
たぶん、どこを目指してるかも分からず闇雲に…。
中間管理職が不在の現場はどうなるか…
想像つくかもしれませんが、決まったルールがなく、仮に決めても個人個人の価値観で動きだすから、互いの考えにズレが生じてくる、まとまりがなくなって…ぶつかり合ってもめる。
後々には医療と介護の対立もあったかな。
なんせじわじわと無法地帯化していきました。
あの当時の同期の中でも、何とかしないといけないと思い頑張ってた人もいましたが、なにぶん同期なだけに聞かないし、感情的になってぶつかり合っていたと思う。そして、本来の仕事ではないことに疲れて辞めていく人がぽつぽつと。まさに負の連鎖。
さいわい、誰か一人が帝王のように君臨するみたいなんはなかったけど。三国志というか、戦国時代みたいな感じ?群雄割拠…は違うかな?
私は、どこにつく、とか、誰につくとかはなく、それなりにいろんな人の話を聞くようになってたかな。八方美人と言われればそれまでですが、別に仕事のことでもめる必要もなかろうと思ってましたので。
まあ、つまりは仲が良いだけでは、仕事はやっていけないということですね。
スタート一緒で仲よかっただけにその反動は大きかったのかもしれないですね。
そして、なぜかフロアリーダーに任命されてしまうのです…。
嫌でも現場や上司とぶつかる板挟みに突入。
甘っちょろい考えに、歳上の職員さんからはめちゃくちゃ怒られたりもしたし、私も偉そうに
言い返したりしてましたが、まぁ、なかなか強く勝てない💦筋が通った話やからぐうの音も出ない感じでした。
でも、私の考えとかやることを一緒に考えてくれる仲間には、サポートめっちゃしてもらってました(^^)
ご飯行って愚痴を言うこともあったけど、同じ方向性を持った人たちやし、ちゃんと話を聞いてくれるし、ちゃんと言ってくれるし。
あの頃、公私共によく過ごしてました。
やっぱり音楽が好きな人たちで、好きなのが近かったんです(^^)
そーゆー面からも話が合うし、よくライブにも来てくれてました。ここでも、きっかけを繋いでくれたのはやっぱり音楽だった。
本当に財産ですね。しばらく連絡とってなかったけど、今はまた繋がりができたので嬉しいですね。
*この3人でよく一緒にいました(^^)
ふざける男2人を見守るみたいな…?
一番めんどくさかったのはシフト作成かな。12〜13人のを、早出、日勤、遅出、夜勤、明け、休みと振り分けるのは苦労しましたね。
いつも夜勤明けに事務所で半分寝ながら作ってました。
「なんでこんな早出が続くんよ」
「このペアじゃ現場回らない」
「夜勤4人いるやん」
とダメ出しくらうこともしばしば💦
それでも、私なりには楽しい雰囲気の職場をどうやって作ろうかと思いながらやってたんですけどね〜。人生においても、仕事においても経験値が低すぎたので、みんなの先頭にはまだ立てる器じゃなかったんやろなぁと。
人を動かす難しさを身に染みて感じることができました。甘さ全開の私が、今に至るとは(笑)当時をよく知る人たちからしたら、「えっ?こいつが⁉️」と思うでしょう。
成長したんですよ、これでも(^^)
でも、やっぱりいい経験させてもらったことには変わりないので、感謝してますね。
【石の上の3年目】
右往左往しながらも周りの協力もあり、現場もようやくまとまってきたのに、おもしろいもので、すぐに壁はやってくるんですよね〜。
どうしても医療の色が濃くならざるを得ない状況。おそらく、どの介護現場でも出てくるであろう課題かもしれません。
そりゃ、そうです。入居者さんらは日に日に歳をとるわけですからね。
介護サイドと看護サイドの意見の食い違いや、見えてこない施設の方向性、迷う現場。
「このままでいいんやろか」
「自分らは何がしたいんやろか」
福祉って何なんやろうかということを考え出したのです。
「理想と現実のギャップを埋めるのが自分達の仕事」
現場の声を施設長クラスの人たちに相談もしましたが、ハッキリとした答えはなく、難しい顔して、「すまん」とか言われて「えぇーっ⁉️(マスオさん風)」状態💦
これは話しても拉致があかないと、理事長さんに時間作ってもらって現場の思いを伝えてみましたが、一蹴。
ちーん…
そして、何かが変わり始めたのです。
あの頃は何を思ってたんでしょう。
おそらく自分の価値観が出来てきた時期だったんでしょう。嬉しくもあり怖くもありました。
良く言えば介護職としてのプライドを持つようになる、悪く言えば頭が硬くなる…
と思ったから、それは嫌やなぁと。
ちょうど、リーダーとして、いろいろと外の研修にも行かせていただいたり、外部の人と話をする機会も増え、自分達がいかに「井の中の蛙」だったことが、徐々に分かってきました。
ちょっと見えてしまうと、もっと外の景色を見てみたいという気持ちがどんどん出てきだしたのです。
変わるぜいつだって
変わるぜ今だって
するりと抜けていく
水銀光ってる
ブルーベリーヒルの上
スリルを見つけたぜ
あきらめる度に
何かが死んでいく
君がそう信じるのなら
ガラクタも宝物だろう
そういうことじゃん
チェンジングマン
優しいフリすんな
その気もないくせに
アブラのとこはちょっと
食えないから残す
あちこち行ったけど
どこにもなじまない
変わるぜいつだって
変わるぜ今だって
死にものぐるいでやんなきゃ
ダメなんだつまらなくなる
そういうことじゃん
チェンジングマン
(チェンジングマン/ザ・ハイロウズ)
悩める若者でしたね〜。
今回もありがとうございました😊