NPO法人代表の"未来は僕らの手の中"

"音楽×福祉"NPO法人の代表が日々のあれこれを日記みたいにゆるーく書いていくブログです。

岡本君

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6月15日の空

今週のお題「お父さん」

父の日…。

母の日に比べてやっぱりインパクトに欠ける父の日。

今は私も2児の父なわけですが、子供らが幼稚園までは何かくれてたなぁ~。

絵を描いてくれたり何かしら手作りのものを。

「ん??コレ何に使うん??」

みたいなものもありましたが、やっぱり嬉しいから使えそうで使えないんですよね。

たぶん、私もそれくらいの頃は父の日には幼稚園とかで作った何かをあげてたんでしょうけど、全く覚えていません。しかし、毎年私にとってはその少し前の6月15日が父の日なのです。ということで、今回は父親のお話。

 

【目次】

 

 

手巻き寿司

我が家は、父、母、私、弟2人の5人家族。父は、電気関係の設計をする仕事をしてました。決して裕福ではなかったですが、食いっぱぐれることもなく平平凡凡とした家庭でした。

父は私達が住んでいる場所より少し北に位置する田舎生まれ田舎育ち。

のんびりした場所ではありましたが、一歩歩けば「◯◯の、△△の家の□□やな」みたいな、若かりし頃は閉鎖的な村社会にうんざりしていたそうです。早くに父親(祖父)をなくし、母親(祖母)と兄(叔父上)の3人暮らしで、なかなか貧しい家庭だったと。経済的に、いろんなことを我慢してきた子供時代だったようで、それもあってか、厳しい人でした。贅沢というところには特に。

それに加えていろんな場面で”父親絶対”みたいなところありました。

今考えると「古き良き時代の父親像」という意味では分からないでもないですが

夏といえば、いつもステテコ姿で巨人戦の野球中継を見ながらビールを飲む感じの、まさに昭和。怒られたときには外に放り出されるかゲンコツくらうか…。

私達兄弟はビビってました(^^)

ビールとマグロの刺身とポテトチップス(うすしおに限る)が大好物でしたね。

たまに、夕飯のときに、父だけ晩酌用の刺身があるんですが、子供たちがもらえるのは刺身の下にある大根!!ちょっと生臭いあの大根です…。

大人ってずっこいなぁ」と本気で思ってました。まぁ、おいしかったですけど(^^)

ある時、父がトイレに立ったタイミングでこっそり一切れ食べて、あとでめちゃくちゃ怒られたのを覚えています💦

そして、刺身といえば、我が家には年に何回か日曜日に手巻き寿司がありました。小さいころはワイワイ楽しいだけだったけど、男兄弟ですから、徐々に食べる量も多くなるわけですよね。

いやしい私は、滅多にないチャンスとここぞとばかりに刺身をてんこ盛りに食べてましたが、めちゃくちゃ怒鳴られて一気に食卓のムードが悪くなるわけです。

それを分かっていても、懲りない私はそれを繰り返しました(笑)

始まりはいい感じなのに、途中から最悪のムードになるという我が家の手巻き寿司イベント…。ついには、我が家の食卓から消えてしまうという……。

 

秘密基地

私が小学校低学年の頃、父は独立して会社を立ち上げるのです。バブルの時代だっただけに、個人でも全然食べていけるくらいの稼ぎだったようです、たぶん。

家から少し離れた事務所。ビルの中の2階にある12~13畳くらいの部屋にトイレ、台所スペースがあるくらいの小さい会社。

よく徹夜してた頃もありましたが、徹夜明けに事務所に遊びに行ったりすることがときどきありました。

外に事務所の看板(各階の案内的な?)があって、そこに会社名が書いてあるんですが、なんか「おーっ!名前書いてある!」と子供ながら何か尊敬の念というか(笑)

子供が行っても楽しいようなものは何もないんですけどね、家にはないような物がいっぱいあったので妙にわくわくしてたのを覚えています。私たちが遊びに行くと、家の顔とは違う父の顔。どこか嬉しそうというか、「どうや、自分の城やぞ」みたいな誇らし気な顔だったのを何となく覚えています。秘密基地みたいやなぁと思っていました。

今自分で事務所借りて自分でやっているのも、その頃のイメージが強かったのもあかも。事業云々より、「自分の城」にあこがれを抱いていたのかもしれません(笑)。

しかし、時代の流れは厳しく、パソコンでの仕事が主流になってきたので、手書きで製図していた父の会社は徐々に経営は難しくなります。仕事が少なくなり前にもましてイライラしている姿が見られるようになりました。負けず嫌いの性格の父は必死でパソコンの勉強もしていましたが、それよりも速い時代に乗れず…。

かといって育ちざかりの男3人がいるわけなので、背に腹は代えられず、ついには会社をたたむことになるわけです。

その頃は私たちは何も分からないので「秘密基地を壊されるみたいで寂しいな」程度。

でも、もし今の自分がその状況になったとしたら、どうやろう??

自分の城から少しずつものがなくなっていくわけですよね。
楽しかった頃、苦しかった頃、いいことも悪いことも含めた何年もの思い出がそこにあって、それを自分の手で終わらせていくわけですよね。

最後にドアを閉めて鍵をかけた瞬間はどんな思いだったんやろう…。

今ならそれを、ちゃんと聞けるような気がするけど。

 

手紙

何度も記事に書いているように、中2でギターを弾き始めたわけですが、昭和のガンコおやじは、「バンド=不良」みたいな概念を持っていたので、買った時はまたまた小言が続きました。でもね、初めてロックってもんに興味を持ち始めた時に、古いカセットテープでビートルズを聞かせてくれたのは紛れもない父親なのです。自分も昔アコースティックギター持ってたくせに(^^)

でも、その頃はいわゆる反抗期だったので口も聞かずだったんですけどね。今だったら

「どんな音楽聴いてたん?」とかもっと話せると思う。

しばらくそんな時期が続いたんですけど、15歳になった誕生日の朝、枕元に3枚綴りの手紙が置いてあったんですよね。

そこには、”ギター楽しいか?せっかく自分で買ったもんや、大事にしいや。わしらの頃は、そんな高級なもの買われへんかったから今のお前らが羨ましい。学校はおもろいか?友達とはどんな話しとるんや?自分の人生やから、好きなことするんもええけど、勉強もおろそかにしたらあかんぞ。あとは、弟たちの面倒も見たってくれよ…(略)”

そして、最後に

”うっとーしい父親やけど、これからもよろしく頼むわ”

たぶん、生まれて初めてもらいました。ちょっと感動もしましたけど、思春期の少年は素直にありがとうとは言えませんでしたね〜。

あ、でもお酒で酔ってたんでしょう、最後のほうは字が崩れてきていました(笑)

どこにでもあるようなキャンパスノートを切り取り、何の変哲もない黒のボールペンで書かれたその手紙が、特別なものになりました。今はもう紙は色あせて、インクがにじんでいる部分もありますが、最初で最後の父からの手紙…実は今でも置いています。

ありがとう❕

 

窓ガラス

私が高校生の頃の話。真ん中の弟が、そりゃあもうヤンチャ真っ盛り。毎日家の中で怒鳴り声が響いていました。ある夜、私が部屋でギターを弾いてたら、何がきっかけかは分からないけど、父と弟が怒鳴りあいのつかみあいになってて、「ガチャン!!」と聞こえ、母に呼ばれます。勢いで台所の窓ガラスが割れてたんですね。

二人とも興奮してましたので、2、3発はくらうかなと思いながら間に入り、何とかやめさせました。弟は外に飛び出し、父親はお酒のせいもあってか呼吸があらかった。

「あんなやつ放っとけ❕」

と言いつつ、しばらくしたら

「おい、お前ちょっとアイツ見てきたってくれ」と。

まぁ、こういう時に行くところなんて近所の公園しかないのでそこへ行って少し話をしました。めずらしく兄らしく⁉️(笑)

父もちょうど会社を閉めて、やりたくもない新しい仕事をやってるものの、うまいこと行かず、イライラしてた時期だったので、あなたの気持ちも分かるけど、ちょっとそのへんの気持ちも汲んでやろうやみたいな話をしたような…??

でも、そのときに率直に感じたのは「おとん、力弱くなったなぁ」でした。

こどもの頃のあのゲンコツが懐かしくもあり、なんとなく寂しくもありました。

 

居酒屋

私が六甲道に一人暮らしをするようになり、顔を合わすことはほとんどなくなりました。帰っても、そんなに話をするわけでもなく。

一時期、例の弟が訳あって私のアパートでしばらく生活してました。

父親は三宮で仕事をするようになってて、まぁ、三宮から2駅と近いっちゃあ近い。

ある夜に電話がかかってきました。

「3人で飯でも行かへんか?」

電話なんて、たぶん初めてかかってきたと思う。ちょうど父が携帯電話を持つようになったからそういうきっかけにもなったのかな。

六甲道まで来てくれて、3人で家の近くの焼き鳥屋さんに行きました。父と私はビール飲みましたが、弟は未成年だったので、建前上ノンアルコール(笑)。

仕事のこと、世の中の動きのこと…かな。他には何の話をしてたのかあんまり覚えていないけど、予想以上に父親が話をしていましたね。しかも、珍しくゆるんだ表情で(笑)もしかしたら、社会人になった私のことを少しだけ一人前に見てくれたのかもしれませんし、それなりの年齢になった息子たちとの時間を楽しんでたのだろうと思います。

実際、初めて父親と外で飲みましたからね~。ウチの父は外食が好きではない人だったのですが、帰り際に「こういうのが夢やった」と言ってました。

私もとにかく楽しい時間だったことだけは覚えています。

というか、三人で行ったのは、本当に子供の頃ぶりでしたし♪

あんまりその次にお酒を一緒に飲んだのは覚えている範囲では自宅と、おばあちゃんのお通夜の時でした。そのときは、親戚もいたので居酒屋で話したような雰囲気ではありませんでした。それから私も仕事にバンドにと忙しく、なかなか帰ることもなかった。

そして、ある時にも「今日何しとんや?暇やったら一緒に飯行かんか?」と声をかけてくれるのですが、ちょうど仕事場の友人らと飲みに行く約束をしてたので断りました。

また近いうちにと約束しましたが、その日がやってくることはありませんでした。

私が23歳の時の6月15日、仕事中に事務所に呼び出されます。

「弟さんから電話です」

「え?ほんまですか?弟??」と何かの冗談かと思い電話に出たら、暗い声で

「おとん死んでもた…今から帰ってこれん?」

状況が分からず職場のみんなが言うままにとりあえず早退させてもらうことにしました。

近くまで車で迎えに来てくれた弟と一緒に病院へ向かいましたが、諸々のことが終わり、もう病院から家に戻るとこでした。半年以上ぶりの再会がまさかのこんな形。

死因は心房疾患、いわゆる心臓の病気。

もともと何か持っていたわけではなかったですが、ある日の朝仕事に出て、駅まで歩いて向かったたものの暑さとだるさで途中で引き返してきたそうです。

シャワーを浴び「ちょっと横になってから行くから、駅まで送ってほしい」と母に言い、居間でいつもとは違うようなイビキをかいて寝たそうです。

ちょっとおかしいと思った母が起こそうとするも起きず…。結局そのまま。

そして家に帰って来るわけですが、家族全員、突然訪れた事実を受け容れる状況ではなかったと思います。

明日の朝起きたら全部夢やったんちゃうかと、「これはもう夢やろう」と思いましたが、やっぱり違いました💦

 

 

後悔先に立たず

たいていの過ぎたことはあんまり後悔しないタイプなんですが、父との飲みの約束を蹴ってしまったことだけは、自分の人生において、たぶん一番の後悔だったと思います。

飲みの誘いの電話がちょうど亡くなる2か月くらい前の春先でしたし、それから実家に帰ってもなかったので電話とはいえ、最後に話したのがそれ。

たぶん、その時からかな。”今”を大事にしようと思ったのは。やっぱり、その時はその時しかないんですよね。今日は二度と戻ってこない。だから、全ての出会いだったり、身の回りに起きたこと、毎日の中のどんな他愛のない出来事も一度きり(一期一会)。けど、その全てのおかげで今の自分があるわけです。悪いこともいいことも全部、起こるべくして起きる。起きた後に自分がどうするかが大切なんですよね、たぶん。失うものがあればこそ、得るものが必ずあるんだと思います。

いろいろありましたがこれをきっかけに残された家族の仲はグッと近づいたと思う。四十九日が過ぎた頃に、兄弟3人でキャンプ場にバーベキューしに遊びに行ったんですけどね、それも子供の頃ぶり。

その道中は3人で父の思い出とかを話して、私達なりにいろいろ整理をつけてたのかも。

おとんが伝えたかったこと、たぶん私たちにはなんとなく伝わってるし、間違いなくその遺伝子は受け継がれている(笑)

実際、その数年後に弟が会社を立ち上げ、それが私が今の事業をするにあたっての起爆剤であり、外せないパートナーにもなってるわけですからね。その下の弟も、自分のやりたいことを形にすべく毎日頑張ってる。今、我が家の男ばっかりであの焼き鳥屋に行ったら、どんな話をするんやろう??

仕事の話、家族の話、人生の話…。

孫も6人いるわけやし、きっと話は尽きないと思います(^^)

とにかく毎日を精一杯生きて、やりたいようにやって話のネタをてんこ盛りにしときます✨

いつかそっち行った時に胸張って話ができるように。

 

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お供え物が弟とかぶるという…

岡本君 また夏が来た

去年よりも 暑くなりそうだ

熱気の中 押しつぶされた

歩道橋で 君を思い出す

 

誰もいない廃車置き場で

水たまりの中 百円拾った

スパイごっこ アイスキャンディー

突然のひどい雨

 

岡本君 君がいない

夏はまるでぬけがらのようだ

 

カブトムシをとりに行った

恐竜のことを話しながら

君のように見える人は

誰もいないだろう

 

岡本君 本当のお別れだ

またねじゃない 本当のサヨナラだ

  (岡本君/ザ・ハイロウズ)

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今回は仕事の話からそれたけど、まぁ、父の日ということで(^^)

ありがとうございました😊